タイトル

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10.26.2016

新ブログへ移行しました

 このたび、新ブログを立ち上げました。
 以降はそちらで更新することになるので、そちらの方もよろしくお願いします。

https://lt.marikonaito.com/

6.21.2016

春学期第8回ゼミ

 お久しぶりです。今回のブログ担当の前田です。
 第7回で触れたとおり新しいブログを開設する影響でこのページへの投稿は今回が最後になるかもしれません。ですが我々の活動そのものは今後も継続していくので、これからもよろしくお願いします!

 さぁ、今回は春学期折り返しの第8回。ゼミ議論もいよいよ佳境です。

 まず四限は恒例の批評理論入門。今回は「間テクスト性」「メタフィクション」「結末」の話です。
 間テクスト性とはすなわち作中における他の文学テクストの影響・関連性のことをいいます。たとえば『フランケンシュタイン』は『失楽園』と間テクスト性の関係にあると言えます。神に作られし始まりの人類・アダムとその敵対者・サタン、両方のモチーフを怪物が有していることが作中で言及されます。
 さらに描写の影響を受けた絵画から作品の解釈を広げるという読み方も可能です。
 これに関しては五限でも言及されますので、詳しくはもう少し下までお待ちを。
 メタフィクションとは語り手が読者へ向かって語りかけ、作品そのものを意図的に作り物であると明らかにする手法です。議論中で上がった例を一つ挙げれば『古畑任三郎』が最たる例でしょう。演劇用語では「第四の壁の破壊」とも言うそうです。
 この項目では「距離」という要素がかなり頻出します。フランケンシュタインもその形式上、真実と語りとの間の距離が強調されフィクション性が暗示されます。また、距離が開くのはそれだけではありません。
 映画『アラジン』を通して二人称形式とメタフィクションの相違点を議論した際にそれが明らかになりました。二人称は読者を物語の一登場人物として作品に「取り込む」のに対して、メタフィクションは逆に読者を物語の中に没入させず「距離をとります」。距離の演出こそがメタフィクションによる効能と言えるでしょう。
 結末とはその名の通りのものなのですが、種類が二つに大別されます。ハッピーエンドやバッドエンドなどはっきりと完結する「閉じられた終わり」と、謎を残し多様な解釈を可能にする「開かれた終わり」です。
 面白いのが「結末が冒頭部へ繋がり円環をなす形」、いわゆる「ループもの」もこれに当てはまるのですが、これも開かれた終わりなのだそうです。円を作っているから閉じていると思われがちなのですが、よくよく考えればきっぱり終わっているわけではないので開かれた終わりだと結論づけました。

 少し休憩を挟み、次は五限。ここがこのゼミにとっての八甲田山、死の彷徨の始まりです。今回はジュリア・クリステヴァの『セメイオチケ1』について議論しました。
 これは上述した「間テクスト性」の概念をさらに拡大させた話となっています。
 そもそも一つのテクストにおいて引用される他のテクストは数え切れないぐらい膨大です。そうした人文科学的な構築物はそれ自体の構造が存在しているのではなく、文学テクストや歴史、社会などの他の構造と照らし合わせて形成されるというモデルが存在しています。つまり人文科学の構造を読み解くことは世界の構造を読み解くことであると言っても過言ではありません。
 さらにこうして影響を与える関係は「過去作→現在作」と一方的なものであると思われがちなのですが、実は相互に影響を与えるものなのです。議論中に上がった例としては『フランケンシュタイン』と『屍者の帝国』の関係が挙げられます。後者が人造人間というモチーフを受けたのは明らかなのですが、逆にそこで描かれるテーマが前者のイメージを拡張させることにも繋がるのです。
 さらに歴史というテクストについても言及されています。もともと我々が普段触れているのは歴史家が選びとった歴史の断片に過ぎません。つまり歴史家はその点において作家よりも権威を持っているということになります。ですがこの文章では、作家が読むことや書くことを通して歴史に参加することができる、つまり作家は歴史家よりも歴史に関わることができると主張しているのです。さっきからこの作者ロックなこと言ってますよね。

 ここまで議論して、残念なことに時間切れになってしまいました……。つまり続きは合宿に持ち越しとなります。
 さぁ、一体支払うべきツケはどこまで溜まるのか。俺たちに明日はあるのか。これは今後の頑張り次第となるでしょう。
 今回の内容はここまで、次回もどうかご贔屓に。以上、内藤ゼミからでした!

6.12.2016

春学期第7回ゼミ

はじめまして、今回のブログ執筆を担当する室です。

突然ですが、今年度からこちらのブログを移設することを検討中です。
今回は議論に入る前に、その件について話し合いました。
ブログ形式だと古いものはどんどん流れて行ってしまうので、残したい情報を別ページで残しやすい形式にできるよう、計画しています。

さて、今回扱った分野は『批評理論入門』からⅠ-11「反復」とⅠ-12「異化」、そしてヴィクトル・シロフスキィの『手法としての芸術』です。

まず、『批評理論入門』の「反復」について。「反復」は音や語句などを繰り返し用いるという修辞技法で、フランケンシュタインにおいては出来事、人物、言葉、イメジャリーなど、様々な要素が反復されていました。『批評理論入門』では、これによって作品全体のテーマや雰囲気が統一されていたことが指摘されています。

議論の内容ですが、まず「韻を踏んだ反復にはどのような意味があるのか?」という疑問が挙がりました。
フランケンシュタインにおいても、原文では韻を踏んだ反復をするセリフなどがありました。これがいったいどのような意味を持つのか、ということで、他にもいろいろな反復を例に挙げて考えてみました。
同じ音が続くことで、印象に残りやすい、覚えやすいといった効果があるのではないか?という意見が出ました。スピーチなどでも韻を踏まれることはありますね。
また、詩などでは音の反復が多く使われることもあります。逆に同じような言葉が続きすぎると退屈に感じることもあることから、快や不快といった感情にも影響があるのではないか、という話でまとまりました。

次に内容を確認していきました。
フランケンシュタインでは、「死」や「怪物との出会い」のシーンが、同じような状況で繰り返し起こります。これによって、読者は「また怪物が現れるのではないか」と感じるようになっていました。また、繰り返し行われることによって、没入感が生まれるのではないか?という話も出てきました。繰り返し何度も語られると、本当にあるのではないか、と思えてきます。フランケンシュタインにおいては、「反復」は恐怖をあおる役割も担っていたのですね。

人物についても、例えば作中で女性たちは同じ目に遭います。なぜ女性ばかりが同じ目に遭うのか、ということですが、ここで「人物の反復」について話し合いました。
「歌舞伎」や戦隊ものでは、例えば二枚目がイケメン、レッドがリーダー、などの決まり事があります。人物の反復によって、ステレオタイプが作られるようです。

次に言葉の反復についてですが、フランケンシュタインでは、同じようなテーマの言葉が繰り返し用いられていました(破壊、運命、創造・・・など)。これによって作品のテーマが強調されていました。また、「生」と「死」という同等レベルのテーマが繰り返し用いられることによって、「生」という本来めでたいはずの出来事が「死」によって薄れていきました。これも、「命の創造」という出来事が悲劇的な結果につながったフランケンシュタインのテーマを強調しています。

次の分野は「異化」です。これは『批評理論入門』においては、「普段見慣れた事物から、その日常を剥ぎ取り、新たな光を当てること」と説明されています。
フランケンシュタインでは、私たちが当たり前だと思っている物事が、知識のない怪物の言葉で説明されることによって「異化」されていました。例えば誕生直後の回想において、夜の闇などが怪物の言葉で説明されています。また、初めて見た「人間」を異化するほか、「言葉」に対する驚きも異化されました。

「異化」については、5限の『手法としての芸術』で詳しく議論しました。
この中で説明されていた「異化」について、まず二つの疑問点が挙がり、そちらを議論してから内容の確認に入りました。疑問は、「人間以外の知覚を通して異化されている小説は『ホルストメール以外にもあるのか?」「大人の知覚を通して異化することは、子どもや人間以外の動物を通して異化することに比べて困難か?」ということです。
前者は、たくさん例がみつかりました。また、小説以外のメディアでも使われている場面が多くあることが分かりました。
後者についても、『テルマエ・ロマエ』など、大人の知覚を通して異化される作品があることが分かりました。この二つは、どのような対象を異化したいのかによって使い分けられているのではないかという話をしました。

さて、内容の確認ですが、まず「異化」について、「飲み物の缶を異化してみる」ということに挑戦してみました。絵で描いてみる、形を説明する、違うものに例えて説明する、素材を説明するなど、いろいろなパターンが出てきました。これによって、「異化」することで人によって様々な認識が生まれる、ということが感じられ、理解がしやすくなったと思います。

本文の中でも理解に特に苦しんだのが、「芸術の目的は、再認=それと認めることのレベルではなく直視=見ることのレベルで事物を感じとらせることにある。」「芸術の手法とは、事物を<異化>する手法であり、形式を難解にして知覚をより困難にし、長びかせる手法である。」の二文で、これについてどういう意味なのかを議論しました。

・「芸術の目的は、再認=それと認めることのレベルではなく直視=見ることのレベルで事物を感じとらせることにある。」
直視というのは、「あるがままに、目に見える通り」に物事を見ることです。繰り返されることによって、習慣化、自動化された物事は、そのあるがままの姿を見るということが難しくなってしまいます。そういった事物に対して、それ自体の姿をきちんと見ること、これが芸術の目的である、ということが書かれています。また、異化は強烈な存在感を生み出します。自動化されることによって、気にも留めなくなってしまった(=再認)ものを、異化することでそのものをきちんと見ようとする(=直視)ことができます。

・「芸術の手法とは、事物を<異化>する手法であり、形式を難解にして知覚をより困難にし、長びかせる手法である。」
「形式を難解にして知覚をより困難にし、長びかせる手法」というのが、異化です。これによって、「何だろう?」と思い続けるのが芸術だそうです。例えば現代アートでは理解されることを拒みますが、これによってそれを見る私たちは、「直視」せざるを得なくなります。見る人が理解をしてしまうことが芸術の終わりであり、そのものを理解しようといろいろな想像をすることが芸術だ、ということです。

ここで、「異化」の体験について話し合いましたが、そこで「時間の感覚」というものが出てきました。その時々で、時間は長く感じたり、あっという間に感じたりするものです。これは普段私たちが、当然「計量化」できると思っているものですから、そういった体験をするとはっとしますよね。軽量化できると思っていても、実際には歪むもので、それを気づかせてくれるのが異化です。


今回の議論は、ここで終了しました。きちんと話し合えていない部分が出てしまい、その部分に関しては合宿でまた議論をすることになっています。それにしても、難しかった・・・。

6.06.2016

春学期第6回ゼミ

はじめまして。今回のブログ執筆を担当させていただきます。提中です。珍しい苗字ですが、この漢字で(だいなか)と読みます。
 


今回は冒頭に夏合宿の相談を少ししてから、議論に移りました。今年は大学のセミナーハウスに宿泊をして、合宿をする計画です。既に合宿でやらなければいけないことが沢山あって、今から不安な気持ち半分、楽しみな気持ち半分の複雑な心境です。

 

では、さっそく本題の授業の内容紹介に移りたいと思います。今回は、『批評理論入門』第一部より「声」「イメジャリー」、またミハイル・バフチンの『ドストエフスキーの詩学』について議論を行いました。

まず、『批評理論入門』の第一部「声」についてです。作品を形作る意識や声によって、物語言説の特徴は二つに分類できます。作者の単一の意識と視点によって統一されている状態を「モノローグ的」といいます。それに対して、多様な考えを示す複数の意識や声が、それぞれの独自性を保ったまま互いに衝突する状態を「ポリフォニー的(対話的)」といいます。あらゆる小説は、ポリフォニー的な物語言説を持っています。ここで、モノローグ的な小説は存在しないのか?ということが議論になりました。その答えは、5限の『ドストエフスキーの詩学』の方のテキストにありました。どうやらドストエフスキーの小説より前の作品では、小説はモノローグ的だったようです。しかし、私たちはあまりモノローグ的な小説に出会ったことがなく、具体的な作品が思い浮かばず、理解に苦戦しました…。

今回の発表は、内容が近かったため、4限のテキストと5限のテキストを同時に行ったのですが、ポリフォニーについては、ミハイル・バフチンの『ドストエフスキーの詩学』に詳しく書かれていました。ドストエフスキーは小説において、ポリフォニー的な世界を構築し、ドストエフスキー以前のモノローグ的な小説を破壊しました。ドストエフスキー以前の小説の登場人物は、作者の意見を導くための存在でしかなく、独立した人間ではありませんでしたが、ドストエフスキーの小説の登場人物は、単なる作者の分身ではなく、それぞれが異なる世界を持っており、独立した存在です。登場人物が、生きている人間、人権を持っている人として、リアルに描かれているため、それらの登場人物たちの声は、作者の言葉と全く同等の、十全の重みを持つわけですね。また、第三回の5限の授業で扱ったロラン・バルトは、登場人物は必ずしも作者の意思に支配されているわけではないといい、バフチンの影響を受けているということが伺えます。



次は、批評理論入門の第一部「イメジャリー」についてです。想像力を刺激し、イメージを喚起する作用をイメジャリーと呼びます。イメジャリーには様々なものがありますが、批評理論入門では、「メタファー」「象徴」「アレゴリー」の3つのイメジャリーについて書かれていました。「メタファー」については後に詳しく触れるのでいったん置いておきます。「象徴」とは、あることを示すために、特に類似性のないものから連想されるものを暗示することです。『フランケンシュタイン』では、重要な場面の前後に「月」が描かれています。キリスト教において月は母性の象徴で、フランケンシュタインの創造行為や、怪物との親子関係を象徴しているともいえます。また、月はフランケンシュタインと怪物の対面に場面に繰り返し現れ、怪物が現れるたびにフランケンシュタイン達は心を乱すため、狂気の象徴でもあります。


「アレゴリ―」とは具体的なものから、抽象的な概念を暗示し、教訓的な意味合いを持たせることです。ここで議論になったのが、イソップ物語のような寓話は、その物語全体がアレゴリ―といえるのか、ということです。例えば「オオカミ少年」は、いつもオオカミが出たという嘘をついていた少年が、本当にオオカミが出た時には誰からも信用されず、誰にも助けてもらえなかったという話です。ここには、嘘をつき続けると、真実を言ったときにも信用されなくなってしまうから、常日頃から正直でいないといけないという教訓的な意味合いが含まれています。思い返してみれば、イソップ物語や昔話などは、教訓的な意味が含まれた話が多いですよね。また、寓話だけでなく「猿も木から落ちる」などの諺もアレゴリーであるのでは、という結論に至りました。そして、『フランケンシュタイン』の物語をアレゴリ―的に読むと、「人間が手を出してはいけない領域に手を出してはいけない」という教訓的な意味になるのではということになりました。

 さて、「メタファー」についてですが、授業では、批評理論入門に書かれていなかった「メトニミー(換喩)」「シネクドキ(提喩)」についても考えました。「メタファー(隠喩)」は、あることを示すために別のものとの共通性を暗示することです。例えば、「白雪姫」は雪のように白い肌のお姫様で、雪とお姫様には「白い」という共通性があります。この共通性はお姫様全体を表しています。それ対して、「メトニミー(換喩)」は赤ずきんの頭巾のように一部を持って全体を表す比喩です。「シネクドキ(提喩)」は上位概念を下位概念で、またその逆で下位概念を上位概念で言い換えることをいいます。例えば、「人はパンのみに生くるにあらず」という言葉は、人は食料を食べることだけを目的として生きているのではないという意味ですが、ここでの「パン」(下位層)は「食料」(上位層)で言い換えられています。

イメジャリーには様々な種類があって、ひとつひとつ理解するのに時間が掛かってしまいました…。



今回の授業では、第3回のロラン・バルトがミハイル・バフチンに影響を受けていたということが分かりました。これからも今までの内容か関わってくることがあると思うので、ここらで一度今までの内容を復習しなくては……。
内容をまとめるのが上手くなく、長々とした文章で申し訳ありませんでした。ここまで読んでくださり、ありがとうございます。内藤ゼミではこれから文章を書く機会が沢山あるので、書く力を鍛えていきたいです。


5.31.2016

春学期第5回ゼミ

初めまして。今回のブログ執筆担当の横野です。

前書きなどを省略させて頂きまして、さっそく本題に入らせていただきますね。今回の『批評理論入門』はⅠ-6「時間」、Ⅰ-7「性格描写」、Ⅰ-8「アイロニー」について議論しました。


ゼミ中には「登場人物の人間の性質を描く上での豊かさと多様性、心理的洞察の深さは小説が一番なのか」「『劇的アイロニー』はロラン・バルトの『作者の死』と関連性があるのか」の2点について特に議論されました。
前者に関しては、やはり文字媒体としての強さは圧倒的ですが、映像ならではの表現法等もあるので一概には言い切れないという結論に。後者は作者の意図から作品を分離しているという考え方である「作者の死」の観点から、作者が仕込んでいないアイロニーや後の時代になってアイロニーになってしまう等、作者の考えが恐らく反映されていないだろう所は関係するのではないかとなりました。授業後に「作者が考えていれたアイロニーと違う意味のアイロニーと認識されてしまう場合はどうなんだろう…」などと考えてしまいました。また、お笑いの、特にコントではアイロニーを使用するネタが多いので、個人的にとても興味深い内容だなと感じましたね。


さて、5限ではジュラール・ジュネット『物語のディスクール』の持続について議論しました。

先ほど5限と書きましたが、今回は『批評理論入門』の発表と内容が近かった為、同時に発表しました。人がテクストを読む時間は映画・音楽とは異なり一定ではないので、物語言説と物語内容の厳密な等時法は存在しません。ただ、台詞などの叙述の切片と虚構の切片の間には一種の相当性は存在します。しかし、それも厳密には台詞が早口、ゆっくりと書いていても完璧には分かりません。作者しか正解は分からないですもんね。なので、相当性を基準にした持続の変化を測定するのは「不可能」なんです。でも、相当性はなくても関係性(=ゼロ度の基準点)はありますとの事。
ゼミ中には「もしこの世界と時間の感覚や世界観が全く異なる作品でも、このテンポは当てはめることは出来るのか」という発表担当相田くんの疑問に、今話題のズートピアやオデッセイの原作、ペルソナなど、たくさんの作品がゼミ生からぽんぽんと出てきました。皆様々なジャンルでオタク気質があるので、ついついフランケンシュタイン以外の作品でも例が出てしまい、授業中に作品プレゼンが始まる事もしばしばあるんですよね(笑)

今回、私個人の話なんですがジュネットさんの文章がどうも苦手らしく(理解できず、十数回読みました…)、発表担当の相田くんに個人的に解説してもらいました、ありがとう…。
そんな訳で、今回も濃厚な180分を終えました。


やっとゼミの雰囲気に慣れたと思った途端にゼミの参考資料の理解や議論に苦しむ日々。ゼミ試の時に少し脅された理由が何となく分かりました(笑)でも、苦しみつつも楽しんでいるのでやっぱり内藤ゼミに入って良かったです!
これから2年間、たくさんの事を吸収して自分の研究に活かしていきたいと思います!

5.24.2016

春学期第4回ゼミ

初めまして!!
今回のブログを担当させていただきます相田です。
更新が遅れてしまい大変申し訳ありませんでした。

さて、今回の会議はゴールデンウイーク明けということで、その思い出話から始まりました。
大層素敵な思い出を持っているのだろうと思いきや、5人中3人が授業の課題の美術館訪問ぐらいしかしていないと…
斯くいう自分も教習所しか言っていないのですが…
夏休み明けの思い出話には期待してください!!!

そんなことでゼミの会議の内容です。
はじめに『批評理論入門』第一部より、「語り手」と「焦点化」,「提示と叙述」の発表をしてもらいました。以下レジュメです。























物語には原則として語り手がおり、その語りにもいくつかの手法があります。
大部分が一人称か三人称の語りですが、稀にある二人称の語りというものがどんなものなのかわからず、5人で頭をひねっていました。

また、語り手の形式にも、枠物語と書簡体物語という、2種類の分類方法があります。
ちなみに『フランケンシュタイン』は三人称と一人称の語りがあり、書簡体物語の中に枠物語が組み込まれている複雑な構造をしています。

加えて、語り手にも、信頼できる語り手と信頼できない語り手がいます。私たちもこの信頼できる語り手にはどんなものがあるかに悩まされました。ロボットみたいにすべての事象を細かく客観的に語ることができたら信頼できるのかとも思いましたが、明確な答えは出ない、というか自分たちもそれを判断できないのではないかなど、なかなか泥沼な議論だった気もしますね…

焦点化では、「見る」という行為を「焦点化」という概念で規定し、見ている主体を「焦点人物」と名付けられていることを学びました。そして、この箇所は追加テキスト『物語のディスクール』のほうでも取り上げられている話題でしたので、そちらも踏まえて議論を行いました。以下レジュメです。

焦点化では、まずこの焦点化という考え方自体を理解するのに全員てこずっていました。まず外的焦点化。これがどのような状況を指すのかで議論が少しだけ止まってしまいました。結果としては、みなさんある程度の理解はできているはずですが、ジュネット氏ももっとわかりやすい文章を書いていただければと切実に思いました。

最後は提示と叙述でした。
黙ってあるがままを記述する提示と語り手が心情なども踏まえて記述する叙述の2種類の方法のことですが、これは比較的スムーズに議論が進行しました。叙述には推理小説でいうところの「叙述トリック」なるものもありましたし、神の視点、つまり三人称の語りからの提示というのは理解しやすかったです。

以上で今回の会議は終了しました。今回の議論は全員が理解しているか確認しながら、一歩ずつ進まないと理解できないような内容で、自分の頭をフル回転させたような気がしました。次回もジュネット先生の追加テキストですので、難解な回になる予感がします。

それでは次回もまたお会いしましょう!!
:余談ですが、レジュメは自分の物をあげているのでところどころメモがあります。申し訳ありません。それにしても追加テキストのレジュメの下のほう、「理想の女の子→内面なんて知るか」とは、いったい何でこんなことを自分は書いたのでしょうか?:

5.09.2016

春学期第3回ゼミ

 はじめまして、今回のブログ執筆を担当します三年の前田です。
 自分達がこのゼミに入って初めての作品議論だったので、みんな緊張してるかと思いきやそんなことは無くまぁ喋る喋る。内藤先生から「皆さんの代は問題なさそうですね(笑)」というお言葉を頂くぐらい活発な授業でした!

 さて、そろそろ本題のゼミ内容紹介をば。
 まず4限では『批評理論入門』という本の冒頭部分についての議論を行いました。
 この本は小説『フランケンシュタイン』を題材としているのですが、なぜかというと第一の理由が有名な作品であるから。第二に小説という形式でしか表現できない要素が含まれているから、とのこと。
 この「小説でしか表現できない」という記述が今回の議論の主な論点となりました。
 『フランケンシュタイン』は小説以外にも映画をはじめとした様々な媒体で作られています。そのあらゆる形式の特色を比較してみると、小説では情景を視覚情報の代わりに読者の想像力に委ねることで読者の心を揺さぶりやすく、映画などの映像メディアでは直感的に物語の要素を理解しやすいなど、それぞれに違う魅力があるということに気づきました。
 この本を読むことで、小説独自の魅力や技術を学んでいけるわけですね。
 その例として、冒頭を手紙形式で書くことによって読者の敷居を下げ物語に入っていきやすくする工夫が挙げられています。
 さらに、物語の一連の流れ(ストーリー)をあえてシャッフルした描写(プロット)が謎を、さらには「サスペンス効果」を生み出すことも述べられています。
 サスペンスの語源は引き伸ばす(suspend)であるということもあり、こうすることで謎の解決が先延ばしにされ物語に引き込まれていくわけです。
 これを体感するために、『桃太郎』の時系列をサスペンス風に並び替えるという作業を行いました!一見簡単そうに思えますが、これが考えれば考えるほど難しい・・・。物語構成の妙を思い知りました。

 次に5限ではロラン・バルト『物語の構造分析』の「作者の死」という論文についての議論を行いました。
 これが伝えんとしていることは、エクリチュール(書かれたもの全般)やテクストを読解する上でその作者の存在は必要ではないということです。
 一見、作品は作者の持つ要素の映し鏡であるのでそのように解釈して読むべきだと思われがちですが、実際それが正解というわけではありません。
 テクストには多様な解釈の可能性があり、それは恐らく無限に広がり続けます。ですが、その広がりが収束するある地点があります。それは「読者」です。エクリチュールやテクストは読者に読まれた時点でようやく完成するわけです。
 物語に必ずしも作者は必要ではないという具体例として、作者の自我を放棄する試みであるシュールレアリスムなどが挙げられています。
 つまりは、「作者」より「読者」の方が重要だということです。この考え方はこれからの自分たちの作品分析に役立ちそうですね!
 ただ、この論文の内容が「読者の解釈」に重きを置いているからか、遠まわしな表現が多くて非常に読みづらいんですよね・・・。おかげでみんな頭を悩まされました(笑)。

 そんな訳で濃密な時間は終わりました。これからの二年間、様々な作品にぶつかっていこうと思います。それでは、また次回お会いしましょう!

3.31.2016

合同発表会後半

3年生に続いて、4年生の発表が行われました!
4年生は2年間のゼミの集大成!しかし、意外にも発表は卒論の内容ではなく、アドバイスでした。2年間過ごして、卒論を書き上げてわかったことが沢山あったのだと思います。だからこそ、新4年生に、新3年生に悔いなく、楽しいゼミ生活を過ごすためのアドバイスをしたいという気持ちが湧き、今回の発表内容に繋がったのだと思います。


3年生の成長ぶりに感動。頼もしく思いました!4年生は安心して卒業することができます!


内藤ゼミの皆さん、何事も素早く行動しましょう。早め早めの行動が良い論文、楽しいゼミ生活に繋がります(経験者は語る)。

内藤先生は厳しい先生ですが、忙しい中、私たちゼミ生のフォローをしっかりしてくださいます。本当に感謝の気持ちで一杯です。
ゼミ生でいる間は、好きなことをとことん!やって充実したゼミ生活を送ってください。そうなることを祈っています。

そして、ゼミ合宿に誘ってもらえると4年生はとっても嬉しいです!

合同発表会前半

2016/3/24
3、4年生の論文の発表会を行いました!
2年生にも参加してもらい、充実した発表会になりました。

当日の教室の様子はこんな感じです。



前半は3年生の発表で、後半は4年生の発表でした。

3年生の論文の内容が、『レ・ミゼラブル』の舞台に春画に百合に『ボトルネック』の作品分析…と皆見事にバラバラで面白かったです。まあそれは私たちの代にも言えることですが…(笑)
どの論文もとても面白かったので、これがこの後どんな卒論になっていくのか楽しみです。

夏休みの時に、3年生の論文のテーマを聞いていたのですが、一作品に絞ってその作品をずっと追及してる人に対して、社会の現象とか価値観に興味のある人が夏の時とテーマが大きく変わってるのが私たちの代と一緒で面白かったです。特に春画。まさかそこに行き着くとは(笑)
ちなみに私は3年の夏はボーカロイドの消費形態の論文を書きました(懐かしいな…)。それが最後にはBL批評になったんだから何がどうなるか分かりませんね。
でもその回り道にも意味はあるので、テーマに迷ってる人はテーマが定まるまで大変かもしれませんが地道に頑張って下さい!


この発表会が私たち4年生にとっては大学生活最後のイベントになりました。
思い返せばこの2年間本当にたくさんのことがありました。
アナ雪の分析を行った時に、教室の電気が消されるまで議論してへとへとになったことも今ではいい思い出です。
私の中で、大学の思い出=ゼミというくらい濃い体験でした。
あっという間の二年間でしたが、内藤ゼミに入って本当によかったです。
ありがとうございました!

内藤まりこゼミ一期生 石原さつき

秋学期第15回ゼミ 後半

3年生最後の批評理論ゼミは、日高さんと私が二人で担当しました。
これは私的感想ですが、レジュメを制作するスピードが、
初回よりも格段に速くなったように思います!(笑)

議論のほうも、大変活発なものになりました。
前半で学んだ、ロンドンの都市構造と階級社会の関連性を踏まえたうえで、
ロンドンは法で支配されている内側と、そうではない外側に分けられる。
この構造の転覆をはかろうとするのは、外側にいる人々であり、
そこには大衆演劇を上映している地域も含まれている。

劇の内容は、ロンドンの状況をメタ的に表現しているとも言えるし、
この劇場自体が「権力に組み込まれている」のかもしれない。

時間切れで納得の行く結論が出せなかったのが悔しい!





秋学期第13回ゼミ

                                  2015 12.17
ブログの更新をすっかり怠っていました。記録は記憶が新鮮なうちにせねばならないのに…
13回ゼミでは、4年生をゲスト講師に招き、4年生の論文集『物語として読み解く『アナと雪の女王』―物語の構造とイデオロギー―』の書評会を行いました。

担当した1章と3章のことです。↓

第1章 『アナ雪』分析の方法―文学研究からのアプローチ

論点『アナ雪』に対するメディア(世間)の解釈を無批判に受け入れてよいのか?

『アナ雪』の「物語」としての特徴を明らかにする
ここでいう「物語」とは始めと終わりがあり、ある筋によってまとめられるような言説形態を意味する。

分析方法
1物語の構造
『アナ雪』の物語を構造として捉えることで他の作品との共通点や差異を浮かび上がらせ、その物語的特徴を明らかにする。
『アナ雪』の新規性として指摘される3つ(①-③)の点に焦点を絞り、検証し、それらの新しさ妥当性を検討、メディアでの言説において語られる解釈の可能性を探る。

    原作とかけ離れた物語内容になっている点
→『アナ雪』の原作となったアンデルセンの『雪の女王』、『アナ雪』、同じくアンデルセンの『雪の女王』を原作に持つレフ・アタマーノフのアニメーション作品『雪の女王』の3作品の関連性を考察する。

    「ダブルヒロイン」物である点
→ウラジミール・ポロップが提唱した物語の構造が『アナ雪』にも存在するか検討し新規性の有無を考察する。
    ヒロイン2人が自立した女性である点
→ディズニーの他の「プリンセス作品」と『アナ雪』にマックス・リュティが掲げた「5つの要素」が存在するか検討し、『アナ雪』と他の「プリンセス作品」との質的な差異を明らかにする。

2物語のイデオロギー
『アナ雪』がどのようなイデオロギーを包含しているのかを考察する。

    エルサの「ありのまま」
ユーリー・ロトマンが提示した記号論的分析方法を用い『アナ雪』の物語世界の空間の仕切られ方、登場人物の配置を分析し、「ありのまま」がいかなる状態であるか考察する。
外部と内部で仕切られた登場人物の関係に生じる権力構造を明らかにする。
    「真実の愛」
「真実の愛」が外部、内部の空間文節に基づく登場人物の権力構造をどのように反映しているかを考察する。

3
1節 空間表微から考えるエルサの「ありのまま」
論点
 エルサは最後まで「ありのまま」でいられたか?
 『アナ雪』はエルサの「ありのまま」の自分を肯定する作品だと解釈できるのか?
 エルサの「ありのままの姿」とはどのような自己像なのか?

・ロトマンは物語の空間「内部」と「外部」からなる構造を持つとした。外部と内部は「境界」によって強固に断絶していて、登場人物が境界を越え今までいた空間とは別の空間に侵入することは容易でない。
      
・                 森、山、海


・境界線は登場人物の行動に応じて位置がずれたり、消滅したりする。
・『アナ雪』において内部は王国が支配し高度な文化が繁栄する人間の住む世界。外部は荒々しい自然が広がり、野蛮な生物や魔術的な生物の住む世界。
・エルサは魔法をつかう点、内部の人間から内部に害をもたらす存在であると認識される点から外部的存在である。
・エルサの「ありのまま」とは魔法を自由に行使できる氷の城での姿であり、内部である王国に戻ってからのエルサは真の「ありのまま」の状態とはいえない。

第2節イデオロギーとしてしての「真実の愛」
論点
 エルサが「ありのまま」でいられない物語の結末はハッピーエンドといえるのか?
 「真実の愛」とはいったい何なのか?
・「真実の愛」を語っているのは全員外部に属している。それは問題の当事者でないものが語ることによって「真実の愛」の普遍性を表すためである。
・実際に「真実の愛」を行使するのは外部の存在だけである。「真実の愛」は外部が内部のために行使する力であり、普遍性があるとはいえない。
・トロールの魔法では凍った心を溶かせない
→「真実の愛」は外部の魔法を凌駕する力であり、魔法を使う外部を制御する力である。

 自分より人のことを大切に思い、その人のために行動することとして描かれる
→自己犠牲のイデオロギー

外部の者たちが、内部の人々や共同体のために行使する力として描かれる
→外部による内部への献身が自明のこととされている。
・『アナ雪』がハッピーエンドとされる理由
①アナとエルサは内部世界で育った人なので、一度外部に出たとしても、最後に内部に戻ってくることを観客が期待するから。

②現代社会では家族は同じ場所に住むべきであるという考え方が一般的であるから。



感想
先輩方の論文は『アナと雪の女王』の見方を広げるものでした。きれいなハッピーエンドとして受け入れるだけでなく、一般的な考えに疑いを持つことで見えるものがあると思いました。また先輩方が提示した見方が正しいというわけではなく、分析方法を変えることで、違った結論が導きだされることが分かりました。