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6.12.2016

春学期第7回ゼミ

はじめまして、今回のブログ執筆を担当する室です。

突然ですが、今年度からこちらのブログを移設することを検討中です。
今回は議論に入る前に、その件について話し合いました。
ブログ形式だと古いものはどんどん流れて行ってしまうので、残したい情報を別ページで残しやすい形式にできるよう、計画しています。

さて、今回扱った分野は『批評理論入門』からⅠ-11「反復」とⅠ-12「異化」、そしてヴィクトル・シロフスキィの『手法としての芸術』です。

まず、『批評理論入門』の「反復」について。「反復」は音や語句などを繰り返し用いるという修辞技法で、フランケンシュタインにおいては出来事、人物、言葉、イメジャリーなど、様々な要素が反復されていました。『批評理論入門』では、これによって作品全体のテーマや雰囲気が統一されていたことが指摘されています。

議論の内容ですが、まず「韻を踏んだ反復にはどのような意味があるのか?」という疑問が挙がりました。
フランケンシュタインにおいても、原文では韻を踏んだ反復をするセリフなどがありました。これがいったいどのような意味を持つのか、ということで、他にもいろいろな反復を例に挙げて考えてみました。
同じ音が続くことで、印象に残りやすい、覚えやすいといった効果があるのではないか?という意見が出ました。スピーチなどでも韻を踏まれることはありますね。
また、詩などでは音の反復が多く使われることもあります。逆に同じような言葉が続きすぎると退屈に感じることもあることから、快や不快といった感情にも影響があるのではないか、という話でまとまりました。

次に内容を確認していきました。
フランケンシュタインでは、「死」や「怪物との出会い」のシーンが、同じような状況で繰り返し起こります。これによって、読者は「また怪物が現れるのではないか」と感じるようになっていました。また、繰り返し行われることによって、没入感が生まれるのではないか?という話も出てきました。繰り返し何度も語られると、本当にあるのではないか、と思えてきます。フランケンシュタインにおいては、「反復」は恐怖をあおる役割も担っていたのですね。

人物についても、例えば作中で女性たちは同じ目に遭います。なぜ女性ばかりが同じ目に遭うのか、ということですが、ここで「人物の反復」について話し合いました。
「歌舞伎」や戦隊ものでは、例えば二枚目がイケメン、レッドがリーダー、などの決まり事があります。人物の反復によって、ステレオタイプが作られるようです。

次に言葉の反復についてですが、フランケンシュタインでは、同じようなテーマの言葉が繰り返し用いられていました(破壊、運命、創造・・・など)。これによって作品のテーマが強調されていました。また、「生」と「死」という同等レベルのテーマが繰り返し用いられることによって、「生」という本来めでたいはずの出来事が「死」によって薄れていきました。これも、「命の創造」という出来事が悲劇的な結果につながったフランケンシュタインのテーマを強調しています。

次の分野は「異化」です。これは『批評理論入門』においては、「普段見慣れた事物から、その日常を剥ぎ取り、新たな光を当てること」と説明されています。
フランケンシュタインでは、私たちが当たり前だと思っている物事が、知識のない怪物の言葉で説明されることによって「異化」されていました。例えば誕生直後の回想において、夜の闇などが怪物の言葉で説明されています。また、初めて見た「人間」を異化するほか、「言葉」に対する驚きも異化されました。

「異化」については、5限の『手法としての芸術』で詳しく議論しました。
この中で説明されていた「異化」について、まず二つの疑問点が挙がり、そちらを議論してから内容の確認に入りました。疑問は、「人間以外の知覚を通して異化されている小説は『ホルストメール以外にもあるのか?」「大人の知覚を通して異化することは、子どもや人間以外の動物を通して異化することに比べて困難か?」ということです。
前者は、たくさん例がみつかりました。また、小説以外のメディアでも使われている場面が多くあることが分かりました。
後者についても、『テルマエ・ロマエ』など、大人の知覚を通して異化される作品があることが分かりました。この二つは、どのような対象を異化したいのかによって使い分けられているのではないかという話をしました。

さて、内容の確認ですが、まず「異化」について、「飲み物の缶を異化してみる」ということに挑戦してみました。絵で描いてみる、形を説明する、違うものに例えて説明する、素材を説明するなど、いろいろなパターンが出てきました。これによって、「異化」することで人によって様々な認識が生まれる、ということが感じられ、理解がしやすくなったと思います。

本文の中でも理解に特に苦しんだのが、「芸術の目的は、再認=それと認めることのレベルではなく直視=見ることのレベルで事物を感じとらせることにある。」「芸術の手法とは、事物を<異化>する手法であり、形式を難解にして知覚をより困難にし、長びかせる手法である。」の二文で、これについてどういう意味なのかを議論しました。

・「芸術の目的は、再認=それと認めることのレベルではなく直視=見ることのレベルで事物を感じとらせることにある。」
直視というのは、「あるがままに、目に見える通り」に物事を見ることです。繰り返されることによって、習慣化、自動化された物事は、そのあるがままの姿を見るということが難しくなってしまいます。そういった事物に対して、それ自体の姿をきちんと見ること、これが芸術の目的である、ということが書かれています。また、異化は強烈な存在感を生み出します。自動化されることによって、気にも留めなくなってしまった(=再認)ものを、異化することでそのものをきちんと見ようとする(=直視)ことができます。

・「芸術の手法とは、事物を<異化>する手法であり、形式を難解にして知覚をより困難にし、長びかせる手法である。」
「形式を難解にして知覚をより困難にし、長びかせる手法」というのが、異化です。これによって、「何だろう?」と思い続けるのが芸術だそうです。例えば現代アートでは理解されることを拒みますが、これによってそれを見る私たちは、「直視」せざるを得なくなります。見る人が理解をしてしまうことが芸術の終わりであり、そのものを理解しようといろいろな想像をすることが芸術だ、ということです。

ここで、「異化」の体験について話し合いましたが、そこで「時間の感覚」というものが出てきました。その時々で、時間は長く感じたり、あっという間に感じたりするものです。これは普段私たちが、当然「計量化」できると思っているものですから、そういった体験をするとはっとしますよね。軽量化できると思っていても、実際には歪むもので、それを気づかせてくれるのが異化です。


今回の議論は、ここで終了しました。きちんと話し合えていない部分が出てしまい、その部分に関しては合宿でまた議論をすることになっています。それにしても、難しかった・・・。

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