タイトル

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5.09.2016

春学期第3回ゼミ

 はじめまして、今回のブログ執筆を担当します三年の前田です。
 自分達がこのゼミに入って初めての作品議論だったので、みんな緊張してるかと思いきやそんなことは無くまぁ喋る喋る。内藤先生から「皆さんの代は問題なさそうですね(笑)」というお言葉を頂くぐらい活発な授業でした!

 さて、そろそろ本題のゼミ内容紹介をば。
 まず4限では『批評理論入門』という本の冒頭部分についての議論を行いました。
 この本は小説『フランケンシュタイン』を題材としているのですが、なぜかというと第一の理由が有名な作品であるから。第二に小説という形式でしか表現できない要素が含まれているから、とのこと。
 この「小説でしか表現できない」という記述が今回の議論の主な論点となりました。
 『フランケンシュタイン』は小説以外にも映画をはじめとした様々な媒体で作られています。そのあらゆる形式の特色を比較してみると、小説では情景を視覚情報の代わりに読者の想像力に委ねることで読者の心を揺さぶりやすく、映画などの映像メディアでは直感的に物語の要素を理解しやすいなど、それぞれに違う魅力があるということに気づきました。
 この本を読むことで、小説独自の魅力や技術を学んでいけるわけですね。
 その例として、冒頭を手紙形式で書くことによって読者の敷居を下げ物語に入っていきやすくする工夫が挙げられています。
 さらに、物語の一連の流れ(ストーリー)をあえてシャッフルした描写(プロット)が謎を、さらには「サスペンス効果」を生み出すことも述べられています。
 サスペンスの語源は引き伸ばす(suspend)であるということもあり、こうすることで謎の解決が先延ばしにされ物語に引き込まれていくわけです。
 これを体感するために、『桃太郎』の時系列をサスペンス風に並び替えるという作業を行いました!一見簡単そうに思えますが、これが考えれば考えるほど難しい・・・。物語構成の妙を思い知りました。

 次に5限ではロラン・バルト『物語の構造分析』の「作者の死」という論文についての議論を行いました。
 これが伝えんとしていることは、エクリチュール(書かれたもの全般)やテクストを読解する上でその作者の存在は必要ではないということです。
 一見、作品は作者の持つ要素の映し鏡であるのでそのように解釈して読むべきだと思われがちですが、実際それが正解というわけではありません。
 テクストには多様な解釈の可能性があり、それは恐らく無限に広がり続けます。ですが、その広がりが収束するある地点があります。それは「読者」です。エクリチュールやテクストは読者に読まれた時点でようやく完成するわけです。
 物語に必ずしも作者は必要ではないという具体例として、作者の自我を放棄する試みであるシュールレアリスムなどが挙げられています。
 つまりは、「作者」より「読者」の方が重要だということです。この考え方はこれからの自分たちの作品分析に役立ちそうですね!
 ただ、この論文の内容が「読者の解釈」に重きを置いているからか、遠まわしな表現が多くて非常に読みづらいんですよね・・・。おかげでみんな頭を悩まされました(笑)。

 そんな訳で濃密な時間は終わりました。これからの二年間、様々な作品にぶつかっていこうと思います。それでは、また次回お会いしましょう!

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