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9.01.2014

第14回ゼミ

2014/07/16

 お久しぶりです。相変わらず更新が遅く、申し訳ありません。第14回ゼミでは『批評理論入門』第2部の、10章「ポストコロニアル批評」と11章「新歴史主義」に取り組みました。

以下、レジュメとなっております。






10.ポストコロニアル批評

 ☆キーワード

  ◎ポストコロニアル批評
ポストコロニアル研究の内、特に文学作品を対象とする場合を指す。批評の具体的方法として、植民地化された国や文化圏から生まれた文学作品を研究するものと、帝国主義文化圏出身の作家が書いた作品において植民地がいかに描かれているかを分析するものとがある。前者は、植民地主義による定型化への異議申し立てがどのようになされ、植民地主義の文化的影響からの脱皮がいかに図られているかといった問題に焦点を当てる。後者は、西洋文化圏のテクスト内部に植民地言説がいかに刻印され、人種的他者がどのように表象されているかといった問題が注目される。

   ポストコロニアル研究
文化研究の一種。広義には、西洋によって植民地化された第三世界の文化全般の研究。

   ポストコロニアリズム
20世紀後半においてヨーロッパの諸帝国が衰退し、アジア・アフリカ・カリブ諸国などのいわゆる「第三世界」が、西洋の植民地支配から独立したあとの歴史的段階。


 
 ☆人物紹介

  エドワード・サイード(19352003
   パレスチナ系アメリカ人の文学研究者、文学批評家。『オリエンタリズム』『知識人とは何か』等。『オリエンタリズム』においてサイードは、西洋の帝国主義諸国が、自らの搾取と支配を正当化するうえで好都合なように、いかに第三世界に関する誤ったイメージや定型化された神話をでっちあげてきたかという問題を提起した。

 

 ☆用語(参考文献『現代文学・文化批評用語辞典』)

  クレオール化:異なる文化集団が長期にわたって相互に影響しあう際に、二つ(あるいはそれ以上)の言語が一緒になり新たな言語を形成するプロセスを本来は指す言葉。しかし、しだいに、クレオール化は、二つ(あるいはそれ以上)の集団が長い間接触する際に、文化の様々な面において起こる変化を指すようになった。

  帝国主義:先進資本主義の発達段階における必然的な段階。その産物として植民地主義が登場したと理解しようとしている。(主にマルクス主義者。)

  植民地主義:ある国(あるいは社会)を他の国(あるいは社会)が政治的に直接コントロールすることであり、とりわけ、インドにおけるイギリス統治の長い歴史のような歴史的出来事を指す。

 

 ☆章の要点

 <『フランケンシュタイン』におけるオリエンタリズム>
 『フランケンシュタイン』は西洋(植民地を支配する側)生まれの作家」によって書かれた。
 →作者が第三世界やそこで生まれた人々をどのように描いているかという問題に注目。

  ○トルコ人(父)
   ・何らかの不当な理由で父娘共々パリで囚われの身となり、死刑を宣告される。
   ・トルコ人は、娘のサフィーに恋をしたフェリックス・ド・ラセーを利用し、娘と結婚させるとして監獄からの逃亡に助力を請う。
・逃亡後、陰謀が発覚してフェリックスの父と妹が捕らえられると、彼を裏切って故国へ引き上げる。(娘と結婚させるという約束も結局無視した。)
   →民族的偏見のゆえに無実の罪を着せられた犠牲者としての側面と、狡猾な忘恩者としての側面を併せ持つ。

  ○トルコ人(娘のサフィー)
   ・父の指図に従わず、ド・ラセー家に身を寄せる。
   ・母親がキリスト教徒のアラビア人で、キリスト教徒と結婚し女性の社会的地位が認められる国で生きることに憧れていた。
   →東洋人であるがキリスト教徒という西洋的価値が付加され、劣った故国から脱出しようとする女性として位置づけられる。

  ○サフィーと怪物の『諸帝国の廃墟』に対する反応
   ・「アジア人の怠惰さ」に対して「ギリシア人の並はずれた才能と精神の活発さ」、「初期ローマ人の戦争とすばらしい美徳―そのあとの堕落―」といった評価を行う。
   →アジア人の劣性とヨーロッパ人の先天的・文化的優性とが対比される。
   ・西洋人の侵略によって迫害されたアメリカ先住民の話を聞き、涙を流す。
   →第三世界出身のサフィーとあらゆるヨーロッパ人から排斥される怪物は、アメリカ先住民に対するただの同情で涙を流すのではなく、彼らの境遇とアメリカ先住民の運命に重なり合う点があることを暗示している。

  ⇒帝国主義による東洋世界の定型化を複数の場面で見ることができる。

 

<帝国主義的侵犯>
クラヴァルの企て
 ・偉業によって名を残したいという野心を抱く。 
・学問領域が人文系で、東洋の語学・文学を学ぶ。
・インドでの植民地建設に貢献しようとしている。
  →クラヴァルはインドに対する帝国主義的侵犯を行おうとしている。

 クラヴァルのインド行きをはじめ、フランケンシュタインの人造人間製作やウォルトンの北極探検をヨーロッパ人による侵犯行為として位置づけると、『フランケンシュタイン』における帝国主義的侵犯は全て挫折に終わる。

 

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 ポストコロニアル批評では、主にエドワード・サイードに関連してオリエンタリズム(「東洋趣味」ではなく「認識の布置(枠組み)」という意味)について学んでいきました。
 まず、「西洋」と「東洋」と聞いてそれぞれ何を思い浮かべるか考えました。私の場合「西洋」とはヨーロッパ、「東洋」とはアジアというかなり大雑把なイメージがあったのですが、そもそもこの「西洋」、「東洋」の区分自体に問題があるということでした。この二つの区別は、いわゆる「西洋」に含まれる人々が自分とは異なるその他をまとめて「東洋」と呼ぶことによって生まれたそうです。つまり、この区分はただの認識の枠組みでしかないのです。
 「西洋」は、「東洋」をただ自分とは異なるものとして区分したのではありません。差別的な二項対立を形成したのです。「西洋」は賢く独立心があり、理性を備えている、などと格上であるかのように定め、「東洋」は愚かで従順、神秘的(理解できない、不可思議という意味で)である、などと格下のように表しました。
 現実とは全く異なるこの二項対立が真実であるかのようにされてしまったからこそ、植民地支配が行われ、かつ今でも様々な国・地域でその傷痕が残されていると考えると、「西洋」、「東洋」という言葉が重く感じられました。また、今回の授業の中で結論は出ませんでしたが、オリエンタリズムについて考える際には日本の立ち位置がどこであるのか議論をしなければならないと感じました。

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11.新歴史主義

 ☆キーワード

  ◎新歴史主義
    1980年代頃に「歴史」という要因を半世紀ぶりに文学研究の中に復活させた。歴史を、社会学や文化人類学などを含む「社会科学」として位置づける。歴史的な題材など他の領域のテクストと文学テクストとの境界を取り払うやり方をとる(ここにミシェル・フーコーの方法論の影響も見られる)。

   歴史主義
    出来事を重視し、歴史を直線的・発展的なものと捉え特定の時代精神と結びつける方法をとる。また、歴史を文学作品の「背景」と見なす。

 
 
 ☆人物紹介

  ミシェル・フーコー(192684
   フランスの哲学者。『狂気の歴史』『監獄の誕生』等。

 

 ☆章の要点

  ○フランケンシュタインの少年時代
・中世の錬金術師たちの著作を読み、彼らの学問に熱中する。(人造人間を造るというアイデアをフランケンシュタインに吹き込むうえで影響力があったと推測できる。)
  ○(フランケンシュタインが生きていた)18世紀
・デカルトは、人間の身体を精巧な自動機械のようなものとして捉えたが、人間には魂があるという点で、動物とは区別されるべきものと考えた。
・ラ・メトリーは、デカルトの議論をさらに推し進めて、『人間機械論』において、人間は魂も含めて完全に機械であり、人間の思考はたんに脳髄の物質的特性にすぎないと主張。(ターニーは、ラ・メトリーは機械論を拡張してプロメテウス伝説と結び付けていることを指摘。『人間機械論』における「新しいプロメテウス」と『フランケンシュタイン』の副題「現代のプロメテウス」が重なり合い、両テクストとのつながりをほのめかすとした。)

  ⇒『フランケンシュタイン』はたんに先行する神話や文学作品と間テクスト性があるのみならず、18世紀中葉ごろに出ていた人間を機械とする新しい見方も取り込んでいると言える。



  ○ヴァルトマン教授の発言とハンフリー・デイヴィの『化学講義序説』
   ・歴史を振り返ることによってその延長上に近代化学を位置付ける。
   ・新しい化学の使用や効用を高らかに掲げる。
  ○『フランケンシュタイン』が書かれた当時
   ・自然科学者たちは自分の研究に不確実要素があると感じていた。
・よって、自分の専門分野が過去の研究にどの程度負っていて、新たにどのような研究成果が期待できるか明らかにし、その系譜上に自らを位置づける必要に迫られた。
  ○18世紀半ばから19世紀初め
   ・医師や科学者の団体が結成されたり学術雑誌が発行されたりするなど、公的な活動が行われ始める。
   ・一方で、大方の専門家たちは個人的に自分の家庭内で仕事をしていた。
   ・イギリスでは熱心なアマチュア科学者が多かった。

  ⇒メアリ・シェリーは、自然の知識への渇望に駆られ科学の歴史を意識しながら孤独な研究を続けるフランケンシュタインに、当時のイギリスのアマチュア科学者の姿を重ね合わせていると言える。

 

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 新歴史主義では、まず歴史主義との違いを明確にしました。
 歴史主義は、歴史を史料をもとに扱い、歴史の始まり(起源)から現在までを線条的に捉え、また着実に発展していると考えます。新歴史主義では歴史を資料(文学作品や新聞など)をもとに扱い、また歴史は時代ごとに分断されていると考えます。私は歴史というと直線をイメージしてしまうため、新歴史主義の考え方に納得するまで少々時間がかかりました。
 次にミシェル・フーコーに関連して「生-権力」について学びました。「生-権力」とは簡単に(大雑把に)言うと、生きている間に権力が知らぬ間に入り込んできている、という意味です。
 前近代では支配者が被支配者に対しある意味わかりやすく権力を行使(端的に言うと支配者に反発する者を死刑に)していました。近代では前述のような権力関係は無い・・・ように見えます。しかしここでフーコーは、権力は主体として生きる自分たちの身体に刷り込まれているとし、権力は遍在する(権力は見えないところにある)と考えました。例えば、学校における教育、病院における治療(誰かに強制されているわけではないのに病気は治さなければならないものとされている)などが挙げられます。もちろんすべての人々が受け入れているというわけではありませんが、多くの人が知らぬ間に見えない権力に従っているのではないでしょうか。この話を聞いて、私は当たり前のように受け入れている身の回りの考えやルールについて、見直してみようと思いました。

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 今回のゼミはどちらも内容が濃く、かつ重たかったです。これからもめげずに頑張っていこうと思います。

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