タイトル

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11.30.2015

秋学期第8回ゼミ

第8回ゼミでは石原千秋『読者はどこにいるのか』(1~3章)を読んで臨みました。

以下レジュメ↓



パラダイム ある時代に支配的なものの仕組みや考え方

 

パラダイム・チェンジ ある社会のシステムといった大きな枠組みを崩壊させ、変容させること。「パラダイム・チェンジ」は、時代の変化によってなされるものだが、誰でも認識できるようなかたちで必然的かつ具体的に現れてくるとされる

 

*この本の論点

1近代読者が誕生したのはパラダイムの変更による

2近代文学研究において読者が問題として浮かび上がったのもパラダイムの変更による

 

近代文学研究のパラダイム~読者の登場まで

作家論パラダイム 19601970年代

*特徴

・近代的自我を論じる

 

*読者

このパラダイムにおいて「真理」は作家の側にあるのだから、極端に言えば読者は自分が読者であるという意識さえ持ってはいなかっただろう。p23

→読者はむしろ邪魔

 

作品論パラダイム 19701980年代

*特徴

・作家論からの影響で作品から「作者の意図」を読み込むことが最終目標

・近代批判の姿勢が鮮明に(近代批判のパラダイム)

*読者

作者よりも研究者自身のイデオロギーや思想性が全面出るようになった。しかし近代批判のパラダイムが強固であったため、研究者は自分がどのような読者か(自分は近代批判の立場に立った読者である)という反省意識を持つことがほとんどなかった。

 

→作者より読者が前にでてきたがそれが問題化されなかった

→作者と作品がある程度切り離されて考えられるようになり、テクスト論の下地に

 

読者の誕生

テクスト論パラダイム 1980年代-現在?

*特徴

・作者とは接続しないがそれ以外のいかなる要因にも開かれている

・文学テクストは現実世界から相対的に自立している

*読者

ロラン・バルト「作者の死」によって読者が誕生

 

テクスト論の流れ

構造主義 

二項対立を用い、構造分析を行う 

↓二項対立を反転

ニュー・アカデミズム

権力に近いものと遠いものとの関係を反転させ社会秩序の転倒をめざす 

ナラトロジーの導入により語り手」の言葉の受け手としての「読者」が概念が「作者」は「読者」という外部を持った。真理はむしろ「読者」の手の中に

 

ポスト構造主義 言語論的転回 「世界は言語のように構造化されている」から「世界は言語である」

主体は一つではなく複数(学生としての私も、店員としての私も、全部私)

→二項対立の考え方ではみえてこない

 

+言語論的転回以降の構築主義

カルチュラル・スタディーズ

時代におけるある事柄の語られ方の偏りを明らかにする メディア研究を盛んに行い、メディア戦略を明らかにする

 

ポスト・コロニアリズム

国家を規定する単位が民族に

 

近代読者

*近代読者が生まれるための八つの条件 『読者はどこにいるのか』p56参照

 =中産階級を成立させるための条件

 

読者の地殻変動① 1910(明治40)前後

・国家が国民に読ませたい本だけ十分に読む能力を身につけさせたいと考えはじめる。

・「高等読者」と「普通読者」、中産階級以上と以下が存在していたが、昭和初期の「円本ブーム」は二つのグループを横断した。

・明治・大正期の「近代文学」が新しい「古典」として広く国民に共有され、大衆読者の内面の共同体の基礎となった。

 

読者の地殻変動② 19601970年代

・読書がエリートの行為から大衆の行為へと広がりを持つようになり、読書が教養から消費に。

・黙読により行う読書は自分と他者との比較ができず、そのため自己と他者の内

面が同じであるという「想像」による「内面の共同体」が形成される。

・国語教育を受けることや図書館で読むことは「内面の共同体」の形成に一役買っている。

・「内面の共同体」≠「想像の共同体」(国民国家)「内面の共同体」は国境や時代を超える。


今回学んだこと↓

近代的自我-人とは違う“自分”というものを持たなければならないと考える。近代以前の身分社会では自分がなにものであるか、自分は人とは違うなにかにならなくてはいけない。というような考えが芽生えにくかった。

想像の共同体-たとえば、“日本”があたかも大昔から存在していることを疑わないような意識。
日本人の特徴として集団行動をすることがあげられた時、“日本人”は集団行動をするDNAを持っているように語られる。私たちは“日本人”という統一した集団が昔からあるように考えてしまうが、それは日本が国民国家となった明治以降の意識にすぎない。


内藤先生(^o^)/ 情コミ学部の学生が共通して必ず読むような本がないのは、情コミの悪いところ     だね。 想像の共同体くらい?共有できてるといいね!

とのことでした。

11.26.2015

秋学期第7回ゼミ

関テクスト性と脱構築

11月5日と12日のゼミでは、いくつかの文献を使って脱構築について学びました。

参考文献
ジュリア・クリステヴァ著 原田邦夫訳
『記号の解体学 セメイオチケ1』(セリカ書房 1983年)
土屋智則 青柳悦子著
『ワードマップ 文学理論のプラクティス』(新曜社 2001年)

まず5日のほうでは、『ワードマップ 文学理論のプラクティス』のほうで紹介された
関テクスト性が、過去のテクストから未来のテクストに影響を与えるだけでなく、
未来から過去のテクストにも影響を与えるのではないか、という考えを確認しました。
もちろんテクストそのものに直接干渉するのではなく、むしろ読者がテクストを読むときに、
以前読んだテクストの影響を避けられないということです。

12日のほうでは5日では確認できなかった『記号の解体学』と、『ワードマップ』の
詳しい解説を先生にしていただきました。

間テクスト性の影響が過去から未来だけではなく、もっと複雑であるということを説明するために、
この2つのテクストを使う、というのが今回のテーマの目的でした。

『記号の解体学』では、対話(P58 12行目)と、水平的(P60 8行目)、
垂直的(P60 9行目)という言葉をキーワードにみんなで話し合い、
対話というのは過去から未来へ、未来から過去へという
双方向的なものであるという結論に至りました。同様に水平的は作者、読者が対象の空間軸的と言い換えられ、垂直的はテクストが対象で時間軸的と言い換えられるという結論を出しました。

『ワードマップ』では、単方向的、モノローグ的、トゥリー的という言葉の対義語を考えました。
単方向的な言葉の対義語に双方向的という言葉を考えたのですが、もはや双方向ですらなく、
多方向的といっても過言ではないと知りました。モノローグ的に対応する言葉を
バフチンはさまざまに言っているらしく、ポリフォニーやカーニバルという言葉で表現しています。ドゥルーズとガタリのトゥリー的に対応するのは、リゾーム的(地下茎)で、上から下への一方向しかないトゥリー的と違い、始点すらわからなくなる植物の地下茎のような構造です。

最近は4限が長引いて5限になかなか時間が取れなかったり、課題と個人が抱える問題がかち合ったりでみんなきついと思いますが、一緒にがんばりましょう・・・!

11.07.2015

秋学期 特別講義

秋学期特別講義 井川理先生
                                               文責 日高華英

【メディアの中の「江戸川乱歩」 ―『陰獣』を中心に―】


10月22日(木)6限に井川理先生による特別講義を行いました。

取り扱った作品は江戸川乱歩の「陰獣」です。

《1》 1930年前後のメディアにおける「江戸川乱歩」と『陰獣』

○乱歩の作家的イメージと『陰獣』広告の変遷
 …『陰獣』の新聞広告など多数の資料をもとに、当時の人びとには、『陰獣』という作品がどのように映っ
  ていたのか、考察。
   読者に『陰獣』がどのような作品なのかを知らせる一番のものが広告。大衆紙の場合、多くの人の目
  に触れるわけだから、そこに書かれた情報が最も一般的なイメージへとつながってしまう。

○1930年代前後の犯罪報道における「江戸川乱歩」と『陰獣』
 …江戸川乱歩を犯罪学者・推理探偵のように扱い、事件に関する見解を掲載している記事。
  一方で、
   江戸川乱歩の『陰獣』が読者に犯罪者意識を芽生えさせ、事件を起こすに至ったかのような記事。
  都合よく利用されていた。

《2》 『陰獣』における「推理」

○『陰獣』というテクストについて
 …手記形式。語り手は、自分で自分のことを「道徳的に敏感」な「善人」としている。
   語り手は、必ずしも信頼できない、と思われる。

○「私」の推理は推理か?
 …信頼できない語り手である「私」の推理には、想像でしかないのでは、と思われる部分が多くある。
  果たして、「私」が行っているのは推理なのか。静子と近しくなりたい。春泥を超えたい。などの願望によ
  って、都合よく事実を組み替えているだけのようにも思える。

《3》 『陰獣』の映画化と1970年前後のミステリ・ジャンルをめぐるメディア環境

○加藤泰『江戸川乱歩の陰獣』(松竹/1977)
 …小説では寒川の視点しか提示されないが、映画では、静子の存在感がすごくある。


古い資料も多く準備していただいて、とても良い議論もできたと思います。
一人ひとりの感じ方もそれぞれで、井川先生も気にしていなかったような論点も学生側から出たりなど、とても有意義だったと思います。
特別講義のあとは、打ち上げを行いました。とても楽しかったです。

秋学期第6回ゼミ

10月29日(木)
中島京子『女中譚』と間テクスト性

時間が押し迫るなか、論点を絞ることで
ゼミ生全員で活発な議論を行うことができました。


論点1 「林芙美子『女中の手紙』の語り手・焦点人物は千代か?」
私の予想は両方とも千代だったのですが、議論していくうちに違うらしいことがわかりました。
『女中の手紙』は千代が信作に宛てた八通の手紙だけが並べられている書簡体小説で、
手紙の文章はすべて千代の一人称で書かれているのですが、
この作品を単なる一人称の小説と決めつけるのはいささか早計です。

この八つの手紙を並べて読者に提示している何者かの存在を無視できないこと、
「手紙」という媒体が作り出す、送り手と読み手の間にある時間のズレが重要であること、
などが理由にあげられます。

結局時間内には決着がつきませんでしたが、
『女中の手紙』が普通の小説とは違う特殊な作品であることを共通の認識として理解しました。



論点2 「戒厳令の夜、萬里子はなぜ「すみ」の胸に触れたのか?」
私が間テクスト性を完全無視して、登場人物の性格描写の議題を挙げたうえに
吉屋信子についての情報をレジュメに書き損ねたため、やや議論がブレてしまいました。
(今回の「間テクスト性」というテーマにおいては非常に重要なことだったと反省しています)

吉屋信子は、彼女自身が同性愛者であることを公表しています。
彼女がレズビアンであったこと、彼女の作品にエス(女性同士の強い絆)を描いたものが多くあること、
そしてこれらを知っていたであろう中島京子が、自作に同性愛的描写を色濃く組み込んだという点は
間テクスト性どころか元作品の作者の性質までもが、以降に生み出される小説の
内容に関わっているのだ、という事実を明らかにしています。



最近は4限の卒論準備ゼミに精魂を吸われているのか、
5限に力を入れられてませんね!頑張って食いついていきましょう!


追記よりレジュメです。

11.05.2015

秋学期第5回ゼミ 特別講義準備

1022() 特別講義準備
文責 日高華英

【江戸川乱歩】[i]
明治27年 三重県名張市生まれ (1894)
大正3年  E.A.ポーやドイルなどの理知的探偵小説の妙味を知る
大正12年 処女作「二銭銅貨」発表
大正14年 乱歩の回想「自分の持っている小説力ともいうべきものを殆んど出し尽くした」~昭和2年     「私の作家としての最良の時期であった」
昭和4年 「陰獣」発表 …12か月ぶりの作品

【『陰獣』論】 鈴木貞美[ii]
・江戸川乱歩は謎解きや犯罪トリックを中心にする「本格志向」と、いわゆる怪奇幻想志向とのふたつの傾向をあわせもっている
・構成:全体としては時間の順序に従って書かれた実話仕立て
    小説のためのメモという性格上、経緯の説明の随所に独白小説的な心理説明
    =実話仕立てと本人の心理説明という二重のしくみ
・乱歩自身認めるようにいわば初期の〈集大成の形〉
・江戸川乱歩の三分身がおりなす事件
・世の中に受けとめられている自分自身を作品の中に示している
・一人称独白体
・ひとつの事件にいくつもの解釈が可能なのだという思想
・江戸川乱歩の『陰獣』は、ひとりの人間の心理においても事実というものが多義性をもって現れることを形象化した作品として異議をもつ

【『陰獣』論―江戸川乱歩における〈推理〉】 横井司[iii]
・批評の多くは、結末に疑いを残したことを非難していた
・江戸川乱歩の〈純粋の探偵小説〉は、探偵の推理を描くと同時に、厳密な推理がつねに真相に到達するわけではないことをも示している

【乱歩小説の映画化について】 桂千穂[iv]
・探偵小説というもの自体、現在と戦前では評価のされ方が大きく違う
1927年 『一寸法師』
1946年 『パレットナイフの殺人』「心理試験」大映
1948年 『一寸法師』松竹がリメーク
1948年 『幽霊塔』大映
1950年 『氷柱の美女』「吸血鬼」
1954年 『怪人二十面相13』『青銅の魔人14部』松竹
1955年 『一寸法師』新東宝 …江戸川乱歩賞が発足した年
1956年 『死の十字路』「十字路」
     『少年探偵団』シリーズ 東映
1957年 『少年探偵団』シリーズ 東映 (つづき)
1958年 『透明人間』『首なし男』小林恒夫
     『蜘蛛男』新映画社
1960年 江戸川乱歩の世界がスクリーンから消えた
1962年 『黒蜥蜴』大映
1968年 『黒蜥蜴』松竹
1969年 『盲獣』大映『恐怖奇形人間』東映
1970年 『屋根裏の散歩者』1976年も
1977年 『陰獣』松竹
1994年 『屋根裏の散歩者』『押絵と旅する男』『RAMPO
1969年までは、全体として映画の本数は増えていったにも関わらず、乱歩の作品は不振に終わっていた
・近年になるにしたがって乱歩をきちんと生かした映画化が増えてきた
・日本映画人の精神が自由になったから

【男の凡庸な名】 武田信明[v]
・犯人の名が、「陰獣」では、最初に提示される
 →探偵小説が「名」を中心に構造化された物語であることを顕在化させる
・猟奇的作家「大江春泥」と、その凡庸な本名「平田一郎」
     →「江戸川乱歩」       →「平井太郎」
・小説家にとっての「名」は重要
 …江戸川乱歩 奇矯さ、特殊性、顕在性
  平井太郎  凡庸さ、一般性、匿名性
・「江戸川乱歩」は、「エドガー・アラン・ポー」に由来



[i] 中島河太郎「江戸川乱歩と幻想文学」国文学解釈と鑑賞○巻12号○頁(1994)
[ii] 鈴木貞美「『陰獣』論」国文学解釈と鑑賞591294102(1994)
[iii] 横井司「『陰獣』論―江戸川乱歩における〈推理〉」国文学解釈と教材の研究3636264(1994)
[iv]桂千穂「乱歩小説の映画化について」国文学解釈と鑑賞59127075(1994)
[v] 武田信明「男の凡庸な名」国文学解釈と鑑賞59123641(1994)


これをもとに次は特別講義。