タイトル

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7.08.2014

第9回ゼミ 結末・伝統的批評

 今回は『批評理論入門『フランケンシュタイン』解剖講義』(中公新書)、第1部の15「結末」と、そして今週から第2<批評理論篇>に入り、1「伝統的批評」についても議論を行いました。


↓ 以下、レジュメと議論のまとめになります! ↓
 

15.結末>

☆キーワード

・閉じられた終わり:小説の終わりがはっきりとした解決に至って終結
→ハッピーエンド、悲劇的結末、意外な結末など

・開かれた終わり:結末について多様な解釈が可能である

☆章の要点

従来、文学作品は心地よい完結感によって「閉じられている」べきだと考えられていたが、読者の自由な読み方が優勢になるにつれ、無限の異なった解釈が可能であるような「開かれた終わり」の小説が増えてきた。


フランケンシュタインの結末は一見、閉じられた終わりのように見えるが

・形式上、ウォルトンの手紙であるのに、最後は署名も決辞もないまま。ウォルトンの手紙は「閉じられていない」

・怪物は暗闇の中にフェードアウトするのみで確実に死んだとは分からない。

草稿状態ではより「開かれた終わり」の印象が強い。


※※※※※※

第一部最終章を飾るはズバリ「結末」です。

フランケンシュタインの終わりでは、結末において怪物の死は明示されておらず、また形式上、手紙は途中で尻切れトンボになってしまっており、実は「開かれた終わり」だった、とのこと。

 議論で突き詰めていくうち、ついには「誰が2つの終わりのどちらであるかを決めるのか?」という話になりました。作者が意図的に終わりを「開く」のか、読者が自ら「開く」のか。…作品は誰のものか、という問題がここでも^^;

 

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 さて、これにて「第1部小説技法篇」は無事、結末を迎え、今度は「第2部批評理論篇」へと入っていきます。実際にどういった批評がなされてきたのか、勉強していきます。


Ⅱ批評理論篇

1.伝統的批評>

 
☆キーワード

・道徳的批評:作品を道徳的・教育的観点から論じる

・伝記的批評:作品を作者の人生の反映としてみる 
 

☆用語
 
印象主義:フランスを中心に起こった絵画、音楽表現上の一傾向。絵画では、対象を精細に写すよりも、対象が画家に与える印象を描くべきだとし、物の固定色を否定し、色彩と光線を重んじて表現した。

 
☆章の要点

①道徳的批評

1818年:『フランケンシュタイン』出版
パーシー・シェリーによる最初の批評
          小説技法/道徳的テーマ/読者に与える影響


・同時代の批評家からは、教育的効果よりもむしろ扇情的影響を及ぼす小説として捉えられるが、後には、この本は道徳的目的に基づいて書かれているという批評がなされるようになる。(e.x. 1959 MA・ゴールドベルク)

・現代社会においての隠喩としての「怪物」:例えば殺人者は私たちにとって理解の及ばない他者であり、「怪物」といえる。『フランケンシュタイン』の「怪物が生まれてきたのは理由があり、怪物となるに至るプロセスがある」という主張は重い意味を持つ。


②伝記的批評

ヴィクター・フランケンシュタインのモデル

・パーシー・シェリー説
→熱狂的な性格、詩人としての側面(ウォルトンがフランケンシュタインについて言及)、理想主義、科学への熱狂

・エラズマス・ダーウィン説
→医者・詩人、無神論者、科学への関心


文学作品をたんに個人的なものへ還元してしまうのは危険であるが、伝記的批評は作品の解釈を豊かにする点で今も有効な方法の一環をなす。

 

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 道徳的批評と伝記的批評、どちらも古くからある方法だそうです。

 上で伝記的批評について、個人的なものへ還元してしまうのは危険であると書かれています。それについて詳しく学びました。伝記的批評には作者の行動や記録など、裏づけできる事実があるので、他の批評よりも根拠があるように聞こえてしまうのです。それゆえこれに重きが置かれると他の視点へと広がりが出なくなってしまう、ということでした。

 

 今回はまたソシュールの言語理論についても議論しました。
 「差異の体系」「シニフィアンとシニフィエ」など。
 かなり難しい話でしたが、理解できると楽しいです。説明できませんが…。

丸山圭三郎『言葉とは何か』(ちくま学芸文庫)

フェルディナンド・ソシュール『一般言語学講義』(岩波書店 小林英夫訳)

この辺の本を読んで勉強し直します!ひえぇ。

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