2.ジャンル批評
☆キーワード
ジャンル:作品が分類されているいろいろなカテゴリー
形式上のカテゴリーに基づくものと、テーマや背景など内容上のカテゴリーに基づくものがある
ジャンル批評:ジャンルに関わる諸問題を扱う批評
☆人物
ツヴェタン・トドロフ:ブルガリア出身の思想家、哲学者、文芸批評家(1939-)
フランスの構造主義批評の先駆者 『幻想文学』など
「ジャンルとは、つねに他の隣接ジャンルとの差異によって定義されるものである」
☆章の要点
『フランケンシュタイン』はさまざまな文学作品と間テクスト性があることから、多様な文学思潮やジャンルと関わりあいがある
①ロマン主義
自我や個人の経験、無限なるものや超自然的なものを重視する思潮
初期ロマン主義:恐怖、情念、崇高さなどが不可欠
後期ロマン主義:荒涼とした自然の原始的な力や人間と自然の精神的交流に対して鋭い直感を示し、旅、幼年時代の回想、報われない愛、追放された主人公などが、しばしばテーマとして挙げられる
・「老水夫行」や「ティンターン寺院」の引用
・題材やテーマそのものが、恐怖や無限なるもの、超自然的なものと密接に関わっている
・旅や幼年期時代の回想、愛の挫折、追放
18世紀後半から19世紀初頭を中心に流行
ロマン主義の中に含まれており、初期ロマン主義に多い
中世の異国的な城や館を舞台として、超自然的な現象や陰惨な出来事が展開する恐怖小説
真実味に欠けた内容を仰々しい表現で描く
・恐怖を主題とし、不気味な描写や陰惨な出来事をふんだんに用いている
・フランケンシュタインと怪物の運命が次第に絡まり合い互いに同一化してゆく→「分身」
・死ぬまで互いに追いかけ合う運命から逃れられない敵対者同士の物語→「逃れようのない不安」
『フランケンシュタイン』がゴシック小説であることを否定はしていないものの、嫌悪感を示している
×主人公が科学によって自然の神秘に乱入する
ロマン主義の行き過ぎに対する反動として、19世紀から20世紀の初頭にかけて盛んに
人生を客観的に描写し、物事をあるがままの真の姿で捉えようとする芸術上の信条
非現実的な描写や美化を避け、人生における日常的・即物的側面を写実的に描く
怪物の超人的な身体能力→フランケンシュタインが細かな作業を避け巨大な体型に造った
怪物の言語能力→隣家のド・ラセー家を観察して学習したという過程が、丁寧に書かれている
人造人間を造る→科学的発見によって実現されたという設定
・人間を個としてのみならず人間関係において描く
20世紀初頭ごろに定義が確立
空想上の科学技術の発達に基づく物語
・生命を吹き込むさい電気が関与した可能性があることを示唆している
・地球上ではもっとも異質な環境である北極が結末の舞台になっている
~~~~~~~~~~~~~~~~~
ここで議論になったのは、ジャンル批評をする意味と、「フランケンシュタイン」のように、複数のジャンルにまたがっている作品をどう思うかということと、ジャンルの定義についての3点でした。
まず、ジャンル批評をする意味としては、既存の作品群との関係が分かることや、そのジャンルの特徴と比較することで、その物語の特徴が分かるという意見が上がりました。
次の複数のジャンルにまたがっている作品をどう思うかに対しては、比較対象が増えたり、物語にバリエーションが出るなど、好意的な意見が多くあげられました。それから、物語を細かく分析した場合、ひとつのジャンル内だけにとどまる作品なんて無いのではないかという意見も出ました。
最後に「ジャンル」の定義については、私たちは、すでにこれらのジャンルが初めから今のような定義だったと考えてしまいがちです。しかし、「ジャンルとは、つねに他の隣接ジャンルとの差異によって定義されるものである」とトドルフが言っている様に、ジャンルの定義は独立しているものではなく、ほかのジャンルの差異から定義されたものです。つまり、新しいジャンルが成立するたびに、“それではないもの”という定義が付け加えられていき、今の形になっているのだということを学びました。
3.読者反応批評
☆キーワード
読者反応批評:作品を自立した存在であるという考え方に意義を唱え、作品とは、テクストに活発に関わってくる読者の存在を前提としたものであると再定義した
テクストが何を意味しているかではなく、テクストが読者の心にどのように働きかけるかという問題に焦点を置く
①読者とは何か
作者がテクストに埋め込んだものを受動的に受け取る者
↓
テクストに活発に関わりテクストとの共同作業によって意味を生産する存在
「知識のある読者」「教養のある読者」:文学を読んだ経験が十分あり、文学の「わかる」人
「含意された読者」「語りの受け手」:作品によって作られた読者の存在を想定し、その役割を演じる理想的な読者
修辞的な示し方:読者がすでに持っている意見を反映し、強化するような方法
弁証法的な示し方:読者を刺激し、自分で真実を見つけよと挑みかけるような方法
空隙・空白・断片的なテクスト・結論の曖昧なテクスト・未完作品
→読者が自らそのギャップを埋めることによって説明づけることを迫られる
作品中で「読む」という行為が扱われている箇所に注目
・フランケンシュタインが少年時代、錬金術師コルネリウス・アグリッパの著書を読ん
で衝撃を受ける
・怪物が自分の読書体験について語る
→『フランケンシュタイン』というテクストを読んでいる読者の立場と重なり合い、「読む」ことを前景化している
・読者は同じテクストに対する自分の反応と、怪物の反応とを比較
・知識の乏しい無垢な子供のような立場に立ってテクストを読む怪物の新鮮な「反応」を前景化する。
怪物はテクストの中に自分が一体化できるものを探し求めて挫折する
怪物は、自らのアイデンティティを探し求めつつ、主観的に反応しながら読む
→テクストよりも読者の個人的な反応を優先するという主張を裏付けるような読み方
→怪物は読むことがいかに読者に強力な作用を及ぼすかを証明している
作品全体の枠組み:ウォルトンからマーガレット・サヴィルに宛てた手紙という形
→この姉弟の文通は読者とテクストの関係のメタファー
→読者の役割を示すモデルとしてのサヴィル夫人
・18世紀のロンドンに住む中産階級の教養のある女性と近似した立場に立って、寛容な理解力のある態度を保ちつつ、ウォルトンの手紙を読むこと
・ウォルトンに対する共感
・フランケンシュタインに対する共感
異常な物語を読み進めながら、読者がフランケンシュタインへの共感を保ち続けるための、作者側の戦略
⑤「読む」ということの怪物性
語りの入れ子構造
→物語の中心部と、不在の手紙の受け取り手がいる外側の余白との間を、読者に移動させる効果がある
怪物の物語の中心であったド・ラセー家
一家と友好関係を結ぶという怪物の計画は失敗
ド・ラセー家の人々は消息を絶つ
→中心点の消滅
「物語は中心部で、怪物の怒りによってばらばらに粉砕してしまう」
読者は、テクストによって課せられた自らの役割を受動的に果たす一方で、そのような押しつけられた構造に抵抗しつつ、自らの読みを生み出そうとする
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こちらでは、「読者」の定義と、有効な解釈とは何かという2点が議論になりました。
まず、この本によると、読者反応批評で扱っている「読者」とは、「知識のある読者」や「含意された読者」など、ある程度の水準の知識を持った者だけを対象としていることが分かります。けれど、そのような定義だった場合、怪物は読者にはならないのではないでしょうか。
この疑問に対しては、「知識のある読者」である作者が書いたものではあるが、物語内での怪物では確かに読者たり得ないのではないかという意見が上がりました。そして、そもそも「読者」を限定する必要があるのかという議論になりました。
この議論に関しては、意見が分かれました。知識がない人だって、その作品を読んで何か感じたのなら読者でいいじゃないかという意見と、作品の意図を正しく読み取れないと読者じゃないのだから、読者には知識が必要だという意見がありました。後者の意見を言った人は、「自分はまだ読者じゃない」と言っていました(笑)
次に、有効な解釈とは何かという議論になり、有効な解釈とは、他人を納得させれるような根拠のある解釈だという意見と、その時代において主流になっている解釈だという意見がありました。それから、そもそも有効な解釈なんて無くて、読んだ人それぞれが思った解釈でいいじゃないかという意見もあり、人によって考えが違うのが面白かったです。
これらの議論に関しては、今回の授業内だけで完結するものではないので、今後もじっくり考えて自分の意見を固めていきたいです。
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