タイトル

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6.06.2016

春学期第6回ゼミ

はじめまして。今回のブログ執筆を担当させていただきます。提中です。珍しい苗字ですが、この漢字で(だいなか)と読みます。
 


今回は冒頭に夏合宿の相談を少ししてから、議論に移りました。今年は大学のセミナーハウスに宿泊をして、合宿をする計画です。既に合宿でやらなければいけないことが沢山あって、今から不安な気持ち半分、楽しみな気持ち半分の複雑な心境です。

 

では、さっそく本題の授業の内容紹介に移りたいと思います。今回は、『批評理論入門』第一部より「声」「イメジャリー」、またミハイル・バフチンの『ドストエフスキーの詩学』について議論を行いました。

まず、『批評理論入門』の第一部「声」についてです。作品を形作る意識や声によって、物語言説の特徴は二つに分類できます。作者の単一の意識と視点によって統一されている状態を「モノローグ的」といいます。それに対して、多様な考えを示す複数の意識や声が、それぞれの独自性を保ったまま互いに衝突する状態を「ポリフォニー的(対話的)」といいます。あらゆる小説は、ポリフォニー的な物語言説を持っています。ここで、モノローグ的な小説は存在しないのか?ということが議論になりました。その答えは、5限の『ドストエフスキーの詩学』の方のテキストにありました。どうやらドストエフスキーの小説より前の作品では、小説はモノローグ的だったようです。しかし、私たちはあまりモノローグ的な小説に出会ったことがなく、具体的な作品が思い浮かばず、理解に苦戦しました…。

今回の発表は、内容が近かったため、4限のテキストと5限のテキストを同時に行ったのですが、ポリフォニーについては、ミハイル・バフチンの『ドストエフスキーの詩学』に詳しく書かれていました。ドストエフスキーは小説において、ポリフォニー的な世界を構築し、ドストエフスキー以前のモノローグ的な小説を破壊しました。ドストエフスキー以前の小説の登場人物は、作者の意見を導くための存在でしかなく、独立した人間ではありませんでしたが、ドストエフスキーの小説の登場人物は、単なる作者の分身ではなく、それぞれが異なる世界を持っており、独立した存在です。登場人物が、生きている人間、人権を持っている人として、リアルに描かれているため、それらの登場人物たちの声は、作者の言葉と全く同等の、十全の重みを持つわけですね。また、第三回の5限の授業で扱ったロラン・バルトは、登場人物は必ずしも作者の意思に支配されているわけではないといい、バフチンの影響を受けているということが伺えます。



次は、批評理論入門の第一部「イメジャリー」についてです。想像力を刺激し、イメージを喚起する作用をイメジャリーと呼びます。イメジャリーには様々なものがありますが、批評理論入門では、「メタファー」「象徴」「アレゴリー」の3つのイメジャリーについて書かれていました。「メタファー」については後に詳しく触れるのでいったん置いておきます。「象徴」とは、あることを示すために、特に類似性のないものから連想されるものを暗示することです。『フランケンシュタイン』では、重要な場面の前後に「月」が描かれています。キリスト教において月は母性の象徴で、フランケンシュタインの創造行為や、怪物との親子関係を象徴しているともいえます。また、月はフランケンシュタインと怪物の対面に場面に繰り返し現れ、怪物が現れるたびにフランケンシュタイン達は心を乱すため、狂気の象徴でもあります。


「アレゴリ―」とは具体的なものから、抽象的な概念を暗示し、教訓的な意味合いを持たせることです。ここで議論になったのが、イソップ物語のような寓話は、その物語全体がアレゴリ―といえるのか、ということです。例えば「オオカミ少年」は、いつもオオカミが出たという嘘をついていた少年が、本当にオオカミが出た時には誰からも信用されず、誰にも助けてもらえなかったという話です。ここには、嘘をつき続けると、真実を言ったときにも信用されなくなってしまうから、常日頃から正直でいないといけないという教訓的な意味合いが含まれています。思い返してみれば、イソップ物語や昔話などは、教訓的な意味が含まれた話が多いですよね。また、寓話だけでなく「猿も木から落ちる」などの諺もアレゴリーであるのでは、という結論に至りました。そして、『フランケンシュタイン』の物語をアレゴリ―的に読むと、「人間が手を出してはいけない領域に手を出してはいけない」という教訓的な意味になるのではということになりました。

 さて、「メタファー」についてですが、授業では、批評理論入門に書かれていなかった「メトニミー(換喩)」「シネクドキ(提喩)」についても考えました。「メタファー(隠喩)」は、あることを示すために別のものとの共通性を暗示することです。例えば、「白雪姫」は雪のように白い肌のお姫様で、雪とお姫様には「白い」という共通性があります。この共通性はお姫様全体を表しています。それ対して、「メトニミー(換喩)」は赤ずきんの頭巾のように一部を持って全体を表す比喩です。「シネクドキ(提喩)」は上位概念を下位概念で、またその逆で下位概念を上位概念で言い換えることをいいます。例えば、「人はパンのみに生くるにあらず」という言葉は、人は食料を食べることだけを目的として生きているのではないという意味ですが、ここでの「パン」(下位層)は「食料」(上位層)で言い換えられています。

イメジャリーには様々な種類があって、ひとつひとつ理解するのに時間が掛かってしまいました…。



今回の授業では、第3回のロラン・バルトがミハイル・バフチンに影響を受けていたということが分かりました。これからも今までの内容か関わってくることがあると思うので、ここらで一度今までの内容を復習しなくては……。
内容をまとめるのが上手くなく、長々とした文章で申し訳ありませんでした。ここまで読んでくださり、ありがとうございます。内藤ゼミではこれから文章を書く機会が沢山あるので、書く力を鍛えていきたいです。


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